昭和四十九年十二月六日 朝の御理解


御理解 第四十六節 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながあり がたいのぞ」


 正しくその通りです。いつもまめなのが有り難い。難儀な事が起きる。それが解決のおかげを頂く、それが有り難いのではないいつも平穏無事であることが有り難いのぞと。
 そこでです、私共が一つその平穏無事のときに、またはこのいつもまめであるときに、本当に心から感謝の心がわいて、喜びの生活、神恩奉謝の生活が出来れるおかげを頂かなければならんということになります。
 ここんところをよく皆さんわかって頂きたい。痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞということ。
 そこでです。いつもまめなのが、痛いのが治ったことよりも有り難いのだけれども、有り難いと感じない。例えば最近合楽で、奇跡が続いておると、もう本当に簡単におかげを頂いたといたしますとね、成るほど有り難い。その有り難いのがこんど治った後でも、なお有り難いのでなからにゃならんのだけれども、有り難くなれない。
 只痛いのが治ることに一生懸命に願っただけで、おかげを頂いたとするか、おかげ頂いて助かりましたとこういう。そしていうなら平穏無事というか、または健康というか、壮健なおかげというか。その神様の願いというのは人間が、いうなら本当に幸せになって呉れることを、神様の願いであるとするならです。平穏であるとき、無事のとき壮健であるときに、もう心の底から日々有り難い日々を送らせてもらって、勿体ない事じゃという生活。しかもその御恩に報いさして頂く生活が出来ることを、神様の願いとしとられるのですから。どうでも平穏無事なときに、壮健なときに有り難い心がどこから湧いて来るかわからん程しに、新たな有り難さがわいて来る様な、信心を身に付けなければならない。ということなんです。ね、繰り返し申しましたが、わかったでしょうか。
 そこでです。ならお互いが様々な難儀を持っておる。例えば、病気なら病気をしている人がです。その病気の全快のおかげを頂き、その病気の全快を願って、一生懸命信心をしておる。だからその信心の頂き方、しかたにです、依ることなんです。
 そういう苦しいとき、平穏無事ではない難儀なとき、いうならまめではない不健康なとき。かりそめにも必死に縋らなければおられない程しの難儀を感ずるときに、私は本気で、神様の心がわかり、いうなら力を受け徳を受けておきますとです、こんどはそこを通りぬけた。そしてその難儀から解放される。
 いうなら病気から健康になるという。その例えば、神様の心がわかり信心がわかり徳を受けて参りますとです。成るほど平穏無事のときがもう本当に有り難うして、有り難うしてという事になるのです。しかも有り難うて有り難うてという心が、いよいよ神恩奉謝、神様の御恩に報いなければおられない程しの日常生活が出来るのです。神様の願いはそれなんです。
 だから、そういう一つの難儀に直面したとき。その難儀のことを願って、おかげを頂かなければならないときの、信心の姿勢というものがです、どうあらなければならないか。またどうするとおかげを受ける、力を受ける、神様のお心がわかる。本当の信心の有り難さがわかると。かということを今日は聞いて頂こうと思います。
 例えば、買い物に参ります。九百五十円のものを買わせて頂いた。千円札を出した。ところがお店さんの方で、あら小銭がございませんか、五十円お釣りがございませんが、というときにです。なら千円札を出した方の人が、ならもう五十円はまけときなさい。まあ仕方がなかと、まあまけると致しましょうか。これは仕方がないから負けるかしれません。けどそういうときにです、千円札を出した、五十円がないならよかですよと言えれる心というものは、やはり豊かな心じゃないと言えないです。
 向こうからもう仕方がないから、五十円負けときましょうと言うのではなくてです。こちらの方がです、負けときましょうと言うことになる。反対に良いですよ、もう五十円いいですよと、これはやはり財布の中も豊かでなからにゃならん日頃の生活もしとらなければです、向こうの方へお釣りもらわんならんとに、はいと、向こうに置いて来ることはでけませんけれども気分が良いですね。
 どうですか皆さん。五十円のお釣りがない、そんならもう九百円に負けときなさい。と言うて無理に値切ってくる買い方と、良いですよ。あとの五十円は良いですよと言うて帰って来れる。その豊かさとか、また気分というものはほんに、がつがつしとるから、その五十円貰わにゃおられん。また値切らにゃおられんです、がつがつしとればね。そうでしょうが、けど財布の中が豊かであり、懐が豊かであるならばです、そういう事も言えるのです。
 そこでです。信心もいうならば、どういう信心をさせて頂くかというと、例えて言うと、昨日こういう私はお届けをさして頂いた。毎日日参のおかげを頂きたいと思います。これはどうでもこうでも、これはおかげを受けなければならないと言う、切羽つまった願いの方なんです。
 日参でもさして頂いて、いっちょおかげを受けなければいけません。只バスの都合で朝参りは出来ませんから、いうなら中途半端なときになります。けれどもお参りしたいとこういう。ところがそのバスの停留所にでるまでに一寸時間がかヽる。それで雨が降ったり雪が降ったりしたときだけは御無礼しますけん。とこう言うのです。そうですな、そりゃ仕様がないですなあと、こう言うわけなんです。
 日参をすると決めた。ところが雨の降るときだけは、雪の降るときだけは、御無礼をしますからという訳なんです。
 私は、日参をすると決めたなら、やはり日参をしなければいけない。それは丁度買い物に行って、そがしてまけときなさいと言うのと同じでしょうが、千円のものをお釣りを、例えば向こうが、九百五十円のものを買うときに、千円札を出した。ところが小銭がないという、そんなら負けときなさいというでしょうもん。ところがそれを反対にです、ならそれはよございますという気になって見なさい。
 例えば、また次に買い物に行ったときに、このまえはかてちもろうたからと、こんどは気分がよいですから、五十円かたのものじゃない百円かたのものでも、その人に上げたい様な気がするのが、これは店の方の思いではなからうかと思う。
 昨日も、私はブラジルに行っております友人が、やはりブラジルに行っておられる東京の方だ相ですが、その方をお道引きをして来たのですけれども、実はその方は宝石屋さんで宝石を買うてもらいたいと言う訳なんです。
 そりゃもう五百万円もする様な、ここではもうそんなもの買っても仕方がないですけども、やはり折角ブラジルからまでも、日本に来て、もう何日か中に帰られるという。ですから私の友人の顔に対してでも、まあ安いものヽ一つでも買わにゃいかん。そのかわり、安いとは三千円位からある。もういろいろ持って来とられました。
 丁度妹が来とりましたから、勿論石だけなんです。ブラジルの方の何とかいうものでしたが、何か難しい。それが八千円、それから家内にこれならどうだろうかというのが丁度一万円。それで勿論こちらは値切ろうとも思いませんから、それを買わせて頂くことに致しました。
 まああれを指輪にしますなら指輪にする方が高くつきましょうけれども、それは丁度、日田の綾部さんと田中さんが見えました。この方達は、そげな宝石ならこげんするしこ持っとるという位な、二人とも沢山な、宝石を持っとられる方なんです。
 その方達も一緒に見ました。そういうときに私が、一つも値切りませんですから、又、他の宝石を一つおまけにして下さった。
 本当にこれはいくらにしとかんのと値切るよりかもう、値切らん人で買える心の状態は有り難いですね。そして他の宝石を一つおまけにして下さった。
 同時に私は有り難いと思ったことはです。末永先生がブラジル布教させて頂こうという事になったら、段々それが軌道に乗って来たということ。私がそれが南米布教ということを神様にお願いする様になったら、とたんにブラジルからの参拝が幾人もあっているということです。
 昨日私はだからこの人を呼んで(末永先生)を紹介した。
 向こうでも、是非おいで下さいと。そしていろいろ参考になる話を聞かせて頂いたんですけど、これはもうあんたブラジルに行く前に、ブラジルの信者さんの名簿でもつくらにゃんごと、おかげ頂いたじゃんのと言うてまあ話した事でございましたけどもね。そういう働きがありよるです。本当に不思議な働きです。
 とにかく広く大きく、願いを持てばやはり広く大きく神様が。おかげ下さるという様な事をまあ感じました。
 まあそんな訳でございますがです。例えば、今日の御理解のところをです、お互いが様々な難儀を持っておる。だからその難儀から、解放されたあかつき。例えば病気なら病気から治ったあかつきに、成るほど痛いのが治ったのが、有り難いけれども、それよりも平穏無事である。また健康であるときの方がもっともっと有り難いんだという、その有り難いんだというその有り難いものを感じられるおかげを頂くために、私は今日皆さんに聞いて頂いておる。神様にまけて下さいと言った様な信心修行でなくてです、こちらからまけときまっしょうという様な、信心をさせて頂くことであります。
 昨日壮年部会ですから、秋永先生が来とりました。そして今日由喜子から電話が掛かって来ました。いわゆる弟嫁なんです、そして兄さんこの頃二三日続けてお夢を頂いた。
 それが何か、大変な夢の様にあるからと言うて電話をかけて来た。本当に胸にびしびし来る様なお知らせ頂いとりました。その中にです、秋永先生が湯上がりを着ておる。それで由喜子さんと兄さんの嫁の良江さんと二人で、福岡に帰るのに乗せて行ってくれと頼んだ。なら乗せて行くよと言いながら、自動車を放っからがして、どこか向こうの方まで行って待っとくからと言うからそこへ行った。ところが秋永先生が田圃の中に頭をつき込んでおられる。傍らによって見たところがもう息が切れとる。冷とうなっておられる。
 金光様金光様というて一生懸命親先生親先生と言うて、お縋りさせて頂いておったら、どこからか声がしてね、もう三度目だから助けん。三度目だから許さんという声がした。大変きびしい声で、三度目だから許さん。
 私は夕べ、そのことを、こんな夢ば由喜子が言うて来たが、大体どういう事でしょうかと言うから、神様にお願いさして頂いたら、信心の一番大事なところ、もう本当に素晴らしい信心が出来るけれども、ギリギリの一番大事なところを、おろそかにするからと頂きました。
 わかったかわからんような風でしたから、私はまた夜中に出てそのことをお願いさしてもろうとりました。そしたら勧進帳のね、弁慶がこうやって何も書いてない勧進帳を読み上げるところがあるでしょう。それをこう読み上げてですね、きまって、相手の方の富樫と言う人が、推慮してね。安宅の関を越させようと思うておるわけです。あまりに演技が素晴らしいから、秋永先生はそこまでは素晴らしくやってのけるのですけれども、ところがその勧進帳を巻くときにです。相手に見えない様に巻くでしょう、舞台にはそれを丁度、反物をほどいたときに巻く様にです、して巻きよるです。
 その富樫の方を向いて、そしてそれには絵が書いてある。どういう絵かというとね、東海道五十三次の絵だろうかと思うてみると、そうでもないらしい、よく見たら弥次喜多道中と書いてある。
 ね、どうでしょうか例えば、如何に富樫がです。本当はでけんのですが、でけんのだけれども、ここは通してやろうと、いくら神様が思うてござってもです、その富樫の方を向いてです。こうやってその中が見えたら、これはもう通すわけには行けないでしょう。富樫の方をこうやって向いて、それが真白であっても、あれは空文という事になりますから、それを相手の方に見せたらです。通すわけには行けないでしょうもん、通してやろうと思うとっても、その弥次喜多道中というか、これは秋永先生だけじゃないお互いの信心がどんなに、緻密に出来とっても、神様の目からご覧になりゃ目の荒い事だろうけれども、その一生懸命の姿に、神様がおかげを下さるのです。
 けどその神様の方を向いてというか、富樫の方を向いて、巻いているその巻物をです。相手に見える様にしてから、やれやれこれで通ったという様な、安心か何かしらんけど、巻きよう、巻きよるのを正面から見ると弥次喜多道中と書いてある。これは今のはしらごつじゃったばいというのではない。
 そりゃしらごととはわかっとるけど、本なことじゃない事はわかっとるけども通してやろうとしてござる。そして様々な意味において、まあいうなら素晴らしい信心をする。素晴らしい演技で、そこんところをです、神様も通してやろうと、思うてござっても、その神様に、それを神様にまるきり見せびらかす様にです。見せびらかすのではなくて、いうなら何というかな、やれやれという気でです、そこまでは出来ておりながら、うかつにこうやって巻きよるもんですから、向こうのそれに見えるならばです。それを見て見ぬふりをする訳には行かん。見せられたらそれは、通すわけには行かんということに、なるというお知らせを、頂きました。ね。
 皆さんお互いがです。もう本当にこれ程し朝参りをなさる。これ程信心が出来ておるのがです、神様からそれを認めて下さらん筈はない。けれども本当に大事ならギリギリというところまで、おかげを頂いておるため。もういうなら神様が蓮根食うて下さろうとするけれども、それじゃ蓮根食おうと思うても食われんじゃないか、一番最後のところをうかつにしてそういうことになれば、これは秋永先生のことだけじゃないお互いのこととして、私は聞いて頂きたいと思う。ですから私共は信心の根性の中にです。例えば、百のものが九十九出来たからというてです、やれやれと気を抜いては、百にはならんのです。たった一ちょのことです。
 百の満願というおかげならばですやはり九十九から、もう一つ向こうに行かなければいかん。百にはならんのです。そこでてす、私共がです。百じゃない百十位の信心をさせて頂くという様な生き方です。
 日参さしてもらいますけど、都合のよいところは、いろんな事情がおこります。だからそのときだけは御無礼しますから。あヽそうですかと私は言います。けどそれは神様まけて下さいという様なものです。
 例えよしどういう様な事があっても。火の雨、槍の雨が降る様なことがあっても、これだけは徹底しておかげを頂きますという、行き方。それがいうなら私が、こちらの方からまけときまっしょうという様な信心、そういう信心から、でなからなければです。充分でなくていうなら、十二分の信心をさせてもらって初めて、おかげを受けるのです。
 そういうお徳を受け、そういう力を受けたらです。とてもとても難儀なところを通りぬけさして頂いた。いうなら医者が助からんという病気を助けて頂いた。助かったことも有り難いけれども、それからの信心がです。壮健であれば壮健である程、よい信心がいよいよ育ってゆく。難儀なところを通らせて頂けば、頂いた程です。神恩報謝の心が起きて来る。神恩報謝の思いをもって神様に応えまつる信心生活も出来る。そういう生活を神様は求め願っておられるのです。
 ですから自分の持っておる問題を。只解決しさえすればよいという様な、お参りの仕方ではなくて、それがおかげを頂いたあかつつきには、もっと垢ぬけした信心の徳を受けてです。壮健なときにお礼が言えれる、何でもない平穏無事のときにです、お礼の信心が出来る様な、おかげを頂くために、お互いは信心のけいこをさして頂いとるのです。
 やれやれというおかげ頂いても、もう大丈夫というこつで、例えばおかげ落とす人があります。ならそれが大変むつかしい事かというとです、こちらが本気で、それこそその気になりゃ難しいことではないです。私の、信心修行のことを言うてはおかしいですけど、いつの場合でも神様の方へ、まけときまっしょという様な行き方じゃったと思います。
 例えば十日、今はそういうことはしもしませんし、又私が許しませんけれどもです。断食なら断食を十日させて頂きますと、神様にお誓いさせて頂いたなら、私は必ず十一日させて頂きます。十日間のあいだどんなお粗末御無礼があっとるかわからん。ですから一日はまけときまっしょと、いった様な一事が万事そういった行き方でした。
 だからこちらがその腹でおりますとですね。もうほんと十日目、十日と決めとくとです、もう一日のときにはガタガタくずれてしまう様な感じがします。けどまあ一日残っとると思いますからね、もうそれこそ十日を完璧な姿勢で修行させて頂くことが出来ます。
 今日は私、本当にです。皆さんが痛い痒いから、救われなければならない。様々な難儀を持っているその難儀から解放されなければならない。ほんとにこういう極楽のおかげを頂いてよかろうかという様なおかげを頂いてもらいたい。この極楽に行ったとたんに信心がゆるんで、只いうならマイホーム的なおかげに、安住しておる様なことではです、つまらんというのです。
 その極楽のおかげを頂いた事をです。通して、いうならば、次の合楽です。のおかげの頂ける様な、信心をそういう難儀なときに鍛えておきたい。又身につけておきたいというのです。
 神様の願いはそこなんだから平穏無事のときには本当に有り難うして、本当に有り難うして、お参りせねばおれんという毎日ですから、お礼参りですから、神様はもう限りないおかげを下さるのです。お願いをする、おかげを頂く、信心がぐずつく、またお願いせんならん事がおきる。またお願い参りをする。そういう繰り返しでは、堂々まわりであります。
 お互い例えば、商売なら商売させてもらうものがです。本当に神様に手形なら手形のことをお願いすればキチッとおかげを下さる。お願いすりゃ金銭のお繰り合わせを下さる。本当に有り難い。けどいつもです、もうそれこそヤアヤア言うて、もう銀行の時間がありませんという様な、お願いをいつもしなければならない様な事はです。いうならば一番大事な最後のところの仕上げが出来とらんからです。
 仕上げが出来ていく様な、おかげを頂いて行ったらです。もうサアー手形だからといって慌てんでもよい、銀行にはいつもゆとりのある貯金が出来ておるというおかげが出来て来るのです。
 そういう、ゆとりが出来るからです。なら、いよいよ九百五十円のものを買うときにです、相手にお釣りがないというなら、もうよかよかと言うて、かえってこちらから、まけときましょうという様な豊かな心も出来て来るわけです。
 だからいうならば、十二分の信心が出来るから、十二分のおかげもまた頂かれる道理です。お互いの信心がね、堂々まわりしておるのが沢山あります。ですからその堂々まわりの信心の人はです、まずはね自分の信心の最後のところでです。迂闊にしたりおかげを、いわば落とす様な、結果に油断が出ておることをわからして頂く。
 だからそういう、おかげ落とさんで済むおかげを頂くために。いつも信心の姿勢というものがむしろこちらから、まけときますという様な、例えばお日参りを心に定めさして頂いたならばです。只家の内に何か都合があったら御無礼します。それは神様もちゃんと見てござるから、ああいう問題があったから、お参りが出来んと認めて下さるでしょう。けどそれはそれだけのこと、ところがです。あヽいう事情があってお参りは出来んというところに、参って来た。あヽ今日はこげな雨の降るに、もうとても参りゃするまいと思いよったら参って来た。そういうときに、はじめて神様の御信用がつくのです。
 それこそ「雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃればなお可愛い」という神様の特別の御信任御信用がつくのです。だからこの辺のところを大事にする人が、お徳を受けるのです。身に徳を受けたら信心を、おろそかにされることは決してありません。むしろますます有り難うなって行き、ますますお礼の御用が出来、お礼の参拝が出来。いわゆる、いつもまめなが有り難いを実感として感じれヽる信心を頂きたいですね。
 皆さん、平穏無事のときいよいよもう本当に有り難いと言え、思えれる信心を頂きたいです。それには、平穏ではない、問題がある。健康ではない、病気をしておる。そういうときのおかげを頂くための信心ではなくてです。ならそういうときに本気で信心の姿勢、または腰構えというものをしっかりさせて頂く。それこそ雨が降ろうと、それこそ雪が降ろうと貫かせて頂くという様な信心をねさせて頂かねばならん。
 いつもまめなが有り難いのだと。このいつもまめなのが有り難いということが、本当にわかる信心を一つ身につけたい。平穏無事そういうときにおろそかに、信心をせんで済むだけの信心をいよいよ頂いておきたい。今ごろ一寸神様が手をゆるめたらすぐ、この氏子はだらだらとくずれる。だからいつまでも首絞められとる苦しさが続くのです。
 だから本気でそこのところの信心が、一つ身について来る様なおかげを頂きたいですね。そして徳をうけたい、徳を受けることによってです、その徳を受けての生活というものはです。いわゆる有り難い、勿体ないの生活です。平穏であればある程有り難い、健康であればある程有り難い。ところから平穏であると信心が、御無礼したから、もう永い間御無礼しとります。どうもなかったから、ところが病気したけん又お願いに来る。といった様なことにはいつまでたっても同じこと。平穏無事のときに、本当に神恩報謝、いわゆる神様の御恩徳に応えまつれる。信心が出来る様な信心を本気で身につけたい。
 昨日、これも秋永先生が、今日は北野の記念祭です。五十年祭です。あちらは全然ここにお参りもして来なさらんし、けども信徒会あてに、また教会宛に案内が来とるから、おかげ頂かねばでけんのですけれども、先生私はこの頃とっても不審に思いますと言う。
 例えば、ほんなあげな風な、うちの大祭にも来ても頂かんごたるところに行くとが何か馬鹿らしい気がします。うちで本気で御用さして頂いとった方が、ほんなこっちゃないでしょうかとこう言うのです。
 うんそれの方がほんなこつかも知れんばってんがね。やっぱお付き合いちゅうんがあるけんで、お付き合いじゃから信徒会長として参らにゃいくめえなと、私は言うたんです。ところがね、私は今日そのことを頂いてから、本当に目が荒いなあと自分ながら思いました。
 私は信徒会長に、もうお付き合いで参れということを言ったが、果してこれが合うとったじゃろうかと思うて、神様にそのことをお願いさして頂きよりましたらね。髪を綺麗に結上げておるとに、珊瑚の丸いかんざしを、こうさすところを頂きました。
 だからどういう例えば、教会であってもです。記念祭ともなれば、それは一生懸命ですよね。そして小さい教会、大きな教会同じです。記念祭ともなれば一生懸命、教会長先生も一生懸命にならっしゃろうが、北野の神様に対してです。
 そして神様がチョン髷ならチョン髷を供えて上げてあります。だからそれにです私共がお参りさせて頂くということは、丁度髪い飾りをつける様なものじゃとおっしゃった。神(髪)北野の教会でその日は綺麗に結ってある。それに合楽がお参りする事によって、かんざしを挿して上げた様にです、晴れるわけです。
 五人よりも十人、例えば、お広前が溢れる様に、例えばお参りをするならです、やはり記念祭が晴れる訳です。それでもですこれがどうでしょうか、ならお付き合いでお参りしたならば、神様には通わんということですよ。私共も他所の教会に参るときには、お付き合い程度で参りよったが、本当に間違い。
 さあそれを今日の御理解じゃないけれども、秋永先生じゃないけれども。本当にそういうときに、もうそれでよかごと思うとるときに、当たり前のごと思うとるときに。大きないうならば、おかげの落とし穴があったことを、改めて気付かせて頂いた。
 これは本気です。北野の教会は向こうが向こうなら、こっちもこっちというのではなくてです。北野の金光様、北野の神様に対して、お参りをするんだという気になってすればもうそれが徳になる。神様のお喜びになる。それがいうならば、あちらから結い上げられた髪に、簪を一本挿して上げる様に、な値打ちがあるものなんです。
 私は今日は改めてです。私が今日は、私にお参りしてくれという、案内が来とりましたから、私がお参りさせて頂きますから、只お付き合いで、参らんならんつもりでおりますけれども、北野の神様に対して、お参りさせて頂こう、それが尚更、御大祭に一本花を添える様な事になるから神様がいよいよよろこんで下さることですから、これは徳を受け力を受けることなんです。
 そういう徳を受け力を受けるチャンスを与えておって下さっても、お付き合いといった分で参ったんでは何にもならんでしょうが。お初穂の損である。お参りした時間が損です。今までは随分そういう意味で損をして来たなと、これは一時が万事にそう思うです。
 今日も皆さんの中にも、今日一緒にお参りなさった方が、おりましょうけれども、お付き合いで参るのじゃない親先生が行かっしゃるけん只行くのじゃない、北野の金光様、北野の神様に対してお参りをするのじゃ。それがいうなら、又北野の教会の御大祭が潤うことになれば、いよいよ有り難いことだという様な、そういう風に頂いて参りますと、私共の信心の目の荒いのに改めて驚くです。お知らせを頂いてはじめてわかった。
 今日秋永先生が来るだろうから、今日頂いたことを話したらです。ならお夢を頂いた。そのことはハッと彼のことですから、わかりましょう。
 また今日の北野に信徒会長としてお参りさして頂くのもです。本当に値打ちのあるお参りが出来るでしょう。そういう様なところが、欠けておると秋永先生が、お夢の中で頂いとるわけであります。けどこれは秋永先生のことではありません。お互いのこととして今日の御理解は、頂いて頂きそして、いつもまめなのが有り難いという信心を、いよいよ身につけたいと思います。どうぞ。